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2022年3月

2022年3月29日 (火)

ピアノに憑りつかれた男

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 1940年、ブラジルのサンパウロに生まれた天才ピアニスト、ジョアン・カルロス・マルティンス。ブルーノ・バレット監督の『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』は、ジョアンの激しく乱高下する生涯と不屈の精神を描いた感動的な伝記映画だ。フィクションならウソっぽくなるほど次々と襲いかかる困難と、そのたびに蘇る姿に圧倒されました。

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 9歳でブラジル・バッハ協会のコンテストで優勝。18歳でカザルス音楽祭に招聘され、21歳でカーネギーホールにデビュー。世界中のオーケストラと共演し、バッハ作品を多数録音。しかし25歳のとき彼が住むNYに遠征にきた地元サッカーチームの練習に飛び入り参加し大怪我を負う。右腕の神経を損傷し、右手指3本が筋萎縮。

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 ピアニストとしてのキャリアをあきらめた彼は、音楽やスポーツ関係のプロモーターや銀行業や建設業などを転々とする。しかしピアノへの情熱に突き動かされ、懸命のリハビリを続け38歳でカムバックを果たす。45歳にかけてバッハの鍵盤楽曲すべてをレコーディングするという偉業を達成。20世紀最高のバッハ演奏家と称される。

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 その後も後遺症に悩まされ、活動と休止を繰り返す。55歳のとき公演先のブルガリアで強盗に鉄パイプで殴られ脳を損傷。手術とリハビリの甲斐なく右手の自由を完全に失う。しかしラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を録音しコンサートを再開。そのうち左手にも障害があらわれ、ついにピアニスト生命を断念する。

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 これだけでも凄まじい音楽家人生なのですが、まだ続きがあります。信じられないことに彼は懸命な努力の末に、指揮者として再起する。そして80歳を超えたいまも、海外のオーケストラや自身がブラジルに設立したバッハ・フィルハーモニー・オーケストラを指揮し、次世代の音楽家を育成する活動を行っているそうです。

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 右手がダメなら左手で。両手ともダメなら指揮者で。彼のピアノへの執着、音楽への情熱は、どこから生まれてくるのでしょうか。天使か、悪魔か。しかし純粋に、厳格に、音楽だけに身を捧げたわけではない。ラテン気質なのか、海外で公演の直前まで娼館に入り浸ったり、見知らぬ女に誘惑されたすえ暴漢に襲われたり。

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 おバカというか、きわめて人間らしい側面も描かれていておもしろい。決して音楽に特化した天使や怪物ではなかったのだ。とは言え、これほどの人間が存在することを知った驚きは大きい。ここで使用された楽曲はすべて彼自身の演奏によるものだそうです。その本物の音とともに鑑賞すると、ますます感動が深まりました。

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2022年3月25日 (金)

NYからマダガスカルへ

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 NYのセントラルパーク動物園で育った根っからの都会っ子たち。ライオンのアレックスと、シマウマのマーティと、キリンのメルマンと、カバのグロリアの仲良し4人組が活躍する愉快な冒険アドベンチャー『マダガスカル』。エリック・ダーネルとトム・マクグラス監督・脚本によるハリウッドらしい2005年の3Dアニメーション作品です。

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 動物園での暮らしに何の不満もなく、快適な日々を過ごしていた仲良し4人組。ところが、シマウマのマーティがふと大自然に憧れを抱いたばっかりに、思わぬ事態に。住み慣れたNYに別れを告げ、先祖の故郷ケニアの自然の中に戻されることになる。しかし、船旅の途中でトラブルが発生し、見知らむ海岸に流れ着く。

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 なんとそこは、まさかのマダガスカル。キツネザルの部族や、彼らを狙う肉食獣のフォッサなど、アフリカ大陸とは違う見知らぬ生きものが棲んでいた。都会育ちで本当の自然を知らない動物が大自然に放り込まれたら? ライオンが野生に目覚めたら親友のシマウマは? こんなユニークな状況が巻き起こすさまざまな珍騒動。

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 野生動物が捕まって動物園へ連れてこられる。これって動物愛護の精神で考えたらどうなのか。しかし逆に生まれも育ちも動物園なら? こんな視点で物事を見ると、今までとは違った情景があらわれてくる。アメリカらしい動物の擬人化キャラの魅力とCGアニメ技術の優秀さで、シリーズ化される人気作品になりました。

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2022年3月19日 (土)

反逆か、正義か

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 国家が間違ったことをした時。その機密を知ってしまった時。しかもそれが人類に対する重大な犯罪だとしたら、それを公に発表することは国家反逆罪なのか。ロシアのウクライナ侵略に関する話ではありません。黒沢清監督の『スパイの妻』。1940年、日本が軍国主義へと突き進んでいた頃の、神戸を舞台にした映画です。

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 ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞した話題作で、『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督も脚本で参加しています。太平洋戦争前夜の不穏な空気が漂い、自由な言論が封殺される暗い時代。ノンフィクションだそうですが、歴史的事実をうまく織り込んで、実話かなと思わせるリアリティがある。

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 貿易会社を営む福原優作は、満州へ視察旅行に出かける。そこで関東軍が細菌兵器の開発のため、密かに人体実験を行っていることを知る。もちろんこれは国家機密。しかし強い正義感から、非人道的な行為を海外で告発しようと決意する。国家機密を漏らす、これはスパイにほかならない。彼を愛する妻 聡子は?

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 裕福な生活。国際的な視野。リベラルな思想。こんな普通に幸せを求める姿が、この時代では普通じゃなかった。しかし暗い時代の夫婦の愛の物語かと思っていたら、がぜん謎とサスペンスに満ちあふれたミステリーへと転じる。憲兵隊との騙し合い。夫婦での騙し合い。何が本当なのか。誰も信じられなくなってくる。

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 自分をコスモポリタンだと言い放つ優作を演じる高橋一生。聡子役の蒼井優が夫に裏切られたと知った クライマックスでの熱演。爬虫類的なコワサを感じる憲兵隊長役の東出昌大。レトロなファッションと相まって、みんなピタリとはまっている。塩屋の旧グッゲンハイム邸や神戸税関など、ロケ地も良い味を出していました。

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 1945年3月、神戸大空襲。そして8月、日本が敗戦を迎える。自分だけ助かればいいのか、とヒドイ仕打ちをしたように見えた優作。精神病院に入れられた聡子。さて、その後は? じつはお見事な結末が用意されていたのです。正直に白状すると、私も観客としてすっかりだまされていました。黒沢監督の見事な手際に脱帽です。

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2022年3月16日 (水)

子どもの自分に出会う時

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 2050年から2022年の世界にやってきた40歳の戦闘機パイロット。そこで出会ったのは12歳の自分自身だった。ショーン・レヴィ監督の『アダム & アダム』は、TIME TRAVEL EXSISTS. YOU JUST DON'T KNOW YET. という注意書きからスタートする。タイムトラベル技術を悪用する悪の独裁者と、時を超えて戦うSF作品。

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 違う次元の自分が同時には存在しない。過去を変えると同じ時代には戻れない。そんなタイムトラベル物の決まり事を意にも介さず、大人になった自分と子どもの自分が力を合わせて悪に立ち向かう。その潔さが気持ちいい。だって人類はタイムトラベルをしたことがないので、ホントのところは分からないじゃないですか。

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 この自由な設定のおかげで、亡くなった父親は40歳になった息子と12歳の息子の3人でキャッチボールを楽しめる。学校でケンカばかりする口達者なイジメられっ子にも助言できる。多感な年ごろの息子に悩まされる母親を親身に慰めることもできる。この映画は、親と子の、夫と妻の、時を超える強い想いがテーマなのだ。

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 もちろんSFっぽい宇宙船や戦闘ロボットやライトセイバー(?)も出てくる。イージーと言うこともできるけれど、さまざまな先人の作品に対するオマージュととらえたい。SFのリクツよりも普遍的な人間ドラマに主眼を置いた作品だ。しかもジョークもたっぷり。肩の力が抜けた軽妙な演出。緊張の時代にピッタリかもしれません。

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2022年3月13日 (日)

絶望と再生のドライブ

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 『ドライブ・マイ・カー』が世界中で話題です。村上春樹の短編集「女のいない男たち」(文藝春秋)の中から「ドライブ・マイ・カー」を原作に、濱口竜介監督が映画化。舞台俳優で演出家の主人公(西島秀俊)は妻の急死から立ち直れず、喪失感を抱えながら生きていた。2年後、演劇祭で演出を担当することになり広島へ向かう。

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 出し物はチェーホフの『ワーニャ伯父さん』。オーディションに始まり、本読み、稽古が毎日続く。彼が取り組んでいるのは実験的な「多言語演劇」。日本、韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、ドイツなど多様な国の出演者が、それぞれ自国語でセリフをしゃべる。なかでも圧巻の存在感を放っていたのが韓国手話で話す女優さん。

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 現地で出会った専属ドライバー(三浦透子)と愛車SAABで宿舎と稽古場を往復する主人公。じつは寡黙な彼女も心に大きな傷を持ちながら生きていた。喪失に苦しむ。絶望に耐える。そして目を背けていた真実に気づき、自らの心のうちと対話する。舞台劇『ワーニャ伯父さん』のストーリーと微妙にリンクしながら進む物語。

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 陽光輝く瀬戸内の海辺。雪が積もる北海道の原野。日本の風景の中を駆け抜ける赤いSAABがもう一人の主人公。走る車内でテープに録音された芝居のセリフを聞く。言葉少ない運転手との貴重な会話。原作では黄色いSAABだったものを風景に埋もれないために赤に変えたと監督は言う。再生への象徴的としての赤いクルマ。

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 どんなに親しい夫婦や親子でも、お互いの心のうちは分からない。他者と自己。それは愛情とか。理解というレベルの話ではない。自分自身のことすらよくわからない、人間の限界かもしれない。だからこそ大切なのは、そばに寄り添うこと。たとえ会話はなくても感じることはある。そこから再生が始まる。希望が生まれる。

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 内省的で静かだけれどスリリングな展開。この映画は村上春樹ワールドを尊重しつつ、見事に濱口竜介の世界を作り上げている。映画のストーリーと舞台劇それぞれのシンクロ具合の巧みさは、濱口監督ならでは。谷口吉生が設計した広島のゴミ焼却場も素晴らしい効果を上げている。世界で賞を取りまくるのも納得です。

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2022年3月10日 (木)

最高峰の辞典を作れ!

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 オックスフォード英語辞典 The Oxford English Dictionary(OED)は、オックスフォード大学出版局が刊行する世界最高峰の辞書。『博士と狂人(The Professor and tha Madman)』は、OEDの誕生秘話を描いたサイモン・ウィンテェスターによるノンフィクションを映画化した作品です。監督はP・B・シェムラン。

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 完成まで70年を要した膨大な辞書OEDの刊行に、重要な役割を果たした二人の天才がいた。貧しい家庭に生まれ14歳で学校を離れて独学で多くの言語を習得した異端の学者ジェームズ・マレー。もう一人はイェール大学を出たエリートでありながら精神を病んだアメリカ人の元軍医で殺人犯のウィリアム・チェスター・マイナー。

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 マレーを演じるのはメル・ギブソン。19世紀の後半、権威主義の権化のようなオックスフォード大学で、大英帝国の威信をかけた辞典の編集主幹として最高の辞書作りに情熱を燃やす。ギリシャ語やラテン語はもちろん多言語に通じているが、学歴がないばっかりに周囲から中傷され、仕事を妨害され、地位を脅かされる。

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 ショーン・ペン演じるマイナーは南北戦争に従軍したときの行為がトラウマとなり、妄想から逃れるために訪れていたロンドンで殺人を犯してしまう。刑務所の精神病棟で出会った本に挟まれていた一枚の紙。それは辞書に掲載する単語とその用例を探すボランティアを募集するチラシ。彼の言葉に対する特別な才能が開花する。

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 二人は究極の辞書作りという壮大なロマンを共有し、堅い絆で結ばれていく。それぞれに降りかかる試練。逆境を克服する勇気。夫を殺された未亡人やマイナーに親切に尽くす看守とも交流を深め、感動的なヒューマンストーリーに。言葉の持つ力によって、人生に光が差してくる様子にはホッと安堵しました。

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2022年3月 7日 (月)

大阪のMoMAを目指す?

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 天保山サントリーミュージアムの休館により寄託された、約18,000点のポスターコレクションが素晴らしい。ロートレック、ミュシャ、クリムト、カッサンドルからサヴィニャックやフォロンまで。ベルエポックからアールヌーボー、アールデコにロシアアヴァンギャルド。そしてモダンデザインから多彩な現代へとつながっていく。

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 リトグラフやシルクスクリーンそして写真製版へ。19世紀から20世紀、技術の進歩はさまざまな新しいスタイルを生み出し、美術の領域を広げてきた。プリントや写真、映像などの新表現。もはや絵画や彫刻だけではアートは語れない。さらに21世紀はITを駆使した想像を絶する豊かな体験が実現するかもしれませんね。

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 また椅子やテーブルや食器棚など、優れたデザイン製品がたくさんコレクションされているのもうれしい。興味深いのがリートフェルトの名作「レッド・ブルーチェア」に至るプロトタイプを素材替えや色替えで並べた展示。ほかにマッキントッシュ、アルヴァ・アアルト、マルセル・ブロイヤー、ミース・ファン・デル・ローエ、倉俣史朗など。

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 アールデコのコロマン・モーザーのアームチェアや倉俣史朗の透明アクリルの現代チェア。時代を越えて「美の極み」と評価される家具や機械製品、そしてファッションもアート作品として収集、保管するのはこれからの美術館のたいせつな役割だと思います。ぜひ大阪中之島美術館に期待しましょう。目指せ! 日本のMoMAを。

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超コレクション展 99のものがたり
2022年2月2日(水)~3月21日(月・祝)
大阪中之島美術館

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2022年3月 4日 (金)

日本有数のクオリティ

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 大阪市が美術館建設を目指して多数の作品をコレクションしているらしい。しかもかなり上質の作品を。というウワサは私たちの耳にも入っていた。各地の展覧会で「大阪市立近代美術館 設立準備室」から貸し出された作品も目にしている。しかしその全体像は誰も知らなかった。そして今回、そのクオリティに驚くことになる。

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 ポスターにも採用された佐伯祐三の『郵便配達夫』。山本發次郎氏から寄贈された574点のコレクションに含まれ、この美術館設立の発端となる。マリーローランサン『プリンセス達』はユトリロやキスリングとともに高畠良朋氏が127点を寄贈。これら多くの寄贈作品が礎となって生まれた成り立ちは、ちょっとMETに似ている。

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 こうしてスタートした大阪中之島美術館は、6000点を超える近代・現代アートのコレクションを収蔵。開館記念展はこの中から代表的な約400点を公開している。主な作家をご紹介。モディリアーニ、マグリット、マーク・ロスコ、フランク・ステラ、モーリス・ルイス、ゲルハルト・リヒター、バスキア。ジャコメッティやジョージ・シーガル。

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 日本人アーティストもスゴイ! 吉原治良はもちろん、草間彌生、杉本博司、森村泰昌、やなぎみわ。こうやって名前を挙げているだけでワクワクしてきます。叶うことなら1週間ほど寝泊まりして観ていたい。国内第一級の質を誇るコレクション、と豪語するだけのことはある。大阪、中之島は文化の集積度がグンとアップしました。

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超コレクション展 99のものがたり
2022年2月2日(水)~3月21日(月・祝)
大阪中之島美術館 

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2022年3月 1日 (火)

祝 40年越しの美術館

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 大阪中之島美術館がオープンしました。1983年に構想が発表されてから約40年。バブルが崩壊して大阪市の財政状況が悪くなり、思いのほか時間がかかりましたが無事に開館。おめでとうございます。堂島川のほうから前庭を緩やかに上ると、ヤノベケンジの巨大作品「シップス・キャット(ミューズ)」が出迎えてくれる。

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  建築家は1970年生まれの遠藤克彦さん。建物全体が地下に隠れている国立国際美術館の隣りに、黒い大きな箱が出現して存在感を放っている。ただし真っ黒なのは3、4、5階部分。宙に浮かんで見えるので意外と軽やかで周辺に圧迫感は与えていません。黒壁とガラスの立方体という潔さが際立つミニマルな建築です。

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 外観はシンプルな箱ですが、中は大きな吹き抜け空間を囲んでエスカレーターや階段が縦横に展示室をつなぐ複雑な構造。すこし位置を変えるだけでガラッと違う表情を見せる美しい空間。迷路を楽しむようにいろいろ歩いてみたくなる。レストランやカフェ、ミュージアムショップやアーカイブズ情報室など多彩なスペースが。

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 4階と5階を結ぶ階段の横には、ここにもヤノベケンジの「ジャイアント・トラやん」が設置されている。階段の横、というのが絶妙の展示場所。作品を下から見上げたり、階段の途中で上部のディテールを間近で眺めたり。何度も昇り降りしながら楽しめる。こんな新美術館で開催中の展覧会については、次回お知らせします。

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超コレクション展 99のものがたり
2022年2月2日(水)~3月21日(月・祝)
大阪中之島美術館

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